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三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

日本仏教の七宗派-真言宗

真言宗について、日本宗教の七宗派の最後に書きました。

教義等については簡単にはこちらをご覧ください

弘法大師入定と即身成仏
即身成仏への道

今までお話しなかったことに触れながら、
他派との違いを説明してみます。

天台宗の僧侶に

「真言宗と天台宗とどちらが厳しいですか?」

と聞きますと

「それは天台宗でしょう」

という答えが還ってきます。

しかし真言宗の僧侶に同じ質問をしても

「それは天台宗でしょう」(苦笑)

笑い話のようですが、
厳しいか厳しくないかは相対的なものです。
同じ修行をしても、
厳しいと感じる人、楽しいと感じる人、それぞれです。

平安仏教である真言宗は鎌倉新仏教と異なり、
天台宗と同じように総合仏教の側面を
持ち合わせています。

それにもかかわらず天台宗の方が
厳しいと感じられるのは
真言宗と天台宗の僧侶養成の違いを
現わしているようにも思います。

すなわち、天台教学という、カリキュラムに基づいて
修行していく天台宗と、
体系だった修行システムを持たない
真言宗の差かも知れません。

行なうことが決められていると、
宿題ではありませんが、
重荷になりかねません。

さらにいえば祖師(宗派を開いた)弘法大師と伝教大師の
修行に対する考え方の差が大きいかも知れません。

ある程度枠にはめて、弟子を厳しく指導した伝教大師と
個々の僧侶の自主性に任せた弘法大師。

現在の結果を見る限りでは、伝教大師の教え方の方が
すぐれていたように思いますが、
まだこれから先どうなるかわかりません。

「真言宗は自力ですか?それとも他力ですか?」

こんな質問も何度か聞いたことがあります。

このシリーズの最初に「自力」「他力」の話をしましたが、
真言宗はどちらとも思えないからでしょう。

真言宗では

「おん~」
「のうまくさーまんだ~」(仏様に帰依します)

と真言を唱えて仏様に救いを求めるのみならず、

「南無大師遍照金剛」(弘法大師に帰依します)

と御法号を唱えてお大師さんにまで助けを請います。

この辺りはどう見ても「他力」としか思えません。

一方では、真言宗の行といえば、
滝に入ったり、護摩という炎を焚いたり・・・
また、厳しい修行に耐え切らないと
僧侶になれない?と本には書いてあります。

すると「自力」?という感じがするのでしょう。

「真言宗は自他力???ですよ」

と浄土宗の僧侶から言われたこともあります。

当たらずといえども遠からずというところでしょうか。

前にも登場したM先生いわく

「真言宗は自力でも他力でもなく三力である」

すなわち
「我功徳力」(行者=自分の力)
「如来加持力」(仏様の力)
「法界力」(宇宙の力)
の三つです。

宇宙の力とは???

それより、仏様の力とは???

仏様の力も、宇宙の力も、他力です。

普段なく自分を後押ししてくれる、
不思議な力が「如来加持力」
一方、自分から求めた時だけ
力を貸してもらえる不思議な力が
「法界力」

私にはそんな気がしています。
真言宗はいつも使うお経(常用経典)が
他の宗派と異なっています。

正式名称は『大楽金剛不空三昧耶経』
通称「理趣経」というのですが、
他の宗派では使いません。
理趣経というのは金剛頂経という
密教経典の一部だからです。

ちなみに、密教は他の地域にも伝わりましたが、
理趣経が重要視されたのは、真言宗だけです。

真言宗では、朝のお勤めに始まり、
法要といえば「理趣経」を用いた「理趣三昧」が一般的です。
法事でも、お葬式でも、お盆の棚行に至るまで
理趣経一本です。

それだけ重要な経典にも関わらず、
僧侶が信者さんには、
このお経を教えてくれません。

それはなぜでしょう?

一般的には、「理趣経」というのは
誤解を招く怖れがあるお経と言われていますので
教えないというのが建前なのですが・・・

戦前までならまだしも、現代では理趣経に関する
解説書はたくさん出ていますし、
それどころが弘法大師が伝教大師に貸すことを拒み
そのために仲違いしたとまで言われる「理趣釈」までが
公開されています。

それが本当の理由とは思えません。

私もなんとなく人に教えたくないのですが・・・(汗)

高野山では理趣経を教わるには
行をしなければなりません。

行をするためには、まずお供えをお祀りして
壇を作ります。その前でまず礼拝行をします。

礼拝行とは立った状態から、
四つんばいになって頭をつけて(五体投地といいます)
また立つを100回(実際は108回)します。

それも、カイタクという拍子木にあわせて行なうので
スクワットをしているようなものです。

高野山の専修学院には年齢制限がありますが
当然だと思われます。

その後すぐに、今度はお経と真言を
1時間ほど唱え続けます。

終わったら、お供えを替えて
少し休憩してから、同じことを繰り返します。

それを掃除や勉強を挟みながら
一日三回、一週間ほど続けて
やっと理趣経が授かります。

自分は行をして「理趣経」を授かった
だから、行をしていない人には教えられない。

というところが本音のような気がします。

「理趣経」ぐらい教えて欲しいという人には
教えてあげればいいのではないか?
というのが一般的な意見かもしれません。

心が狭いような気もしますが、
「理趣経」を習うのなら
本気でお願いしますという気もします。

いかがでしょうか。

しばしば真言宗の檀徒さんから

「やはり(他宗派と比べて)真言宗が良いですね」

という声を聞きます。

真言宗をほめられているので、

「それはそうでしょう!」

と素直に喜びたいところですが、実際は

「そうですか?」

と苦笑してしまいます(汗)

さて、昨日お話ししたように
真言宗の僧侶はあまり常用経典の
「理趣経」でさえ教えません。

すなわち、真言宗は僧侶が
お唱えするお経と
信者さんがお唱えするお経でさえ
違うのです。

これは何を意味するのでしょうか?

実は真言宗は基本的に自分で救われる努力を
しなければならない教えです。

それなりの修行と勉強を
しなければなりません。

だから、仏様に助けを請うだけでは
全く救われない教えですが、
そのことは全く理解されていません。

現実の真言宗は、日本の民族信仰である
葬送儀礼の上に載った状態で
一般に認識されています。

「羊の皮を被った狼」のような状態ですね(笑)

したがって、前述の「真言宗が良い」という発言も
皮の部分を見ての発言なので、
苦笑せざるをえないのです。

このような状況は真言宗に限らないでしょう
他の宗派についても同じように
日本の民族信仰と本来の教義との間の
相違が大きいに違いありません。

ですから、家に仏壇をお持ちの方には
ぜひ、信仰している宗派の教義についても
理解していただきたいと思います。




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